まだロックが好き

まだロックが好き

おめおめと生きている日記

The Killers「Wonderful Wonderful」を聴いた。時代に逆行するロックがあった。

 ボーカルのブランドン・フラワーズという人の才幹に圧倒され、ソロアルバムまで購入したことのある私だけど、今回のキラーズ名義のアルバムもとても好きなアルバムだった。とにかくメロディが好い。そしてなによりもちょっとださい。

 

 このだささの正体は、どこか懐かしみを感じるようなサウンド作りなのだろうか。いまどきの、音を幾重にも重ねたような、そのうえからコンプで圧縮したような、それでも低音をブーストしちゃってるからぐんぐん聴こえるような。そんな感じではなかった。もともとシンセサイザーを主眼におくバンドであるが、今回はとてもエレクトロに纏まっている。しかし前述の感じではない。とてもシンプルだった。というか、無駄がなかった。

 

 正直に申し上げれば、一曲目の「Wonderful Wonderful」で笑ってしまった。雅楽が鳴った。笙のような音から始まった。悠久の鬨ですか? と伺いたくなるような音だった。小賢しい楽器隊の主張などは皆無だった。個を殺して全を生かす。そんな気概がタイトル曲である一曲目に集約されているのではなかろうか? と思った。

 

 「The Man」という二曲目に、その古めかしい、言い方を変容させればレトロな音楽的な遡上があった。私はなぜかプリンスを思った。陳腐なという言い方は失礼だろうが、幽邃なそのドラムサウンドからは黒さを感じる。彼らはもちろん白人のロックバンドなのだが、シンプルゆえの奥行きのあるバックビートが鳴っていた。そしてなによりもメロディの立ちかたが尋常でない。

 

 キラーズはブランドンの使用する、シンプルな音階から醸成される、メロディの強さが際立っているバンドだと思う。四曲目の「Life to Come」なんて、まさに正真正銘キラーズメロだ。歌詞がわからずとも耳にメロディが残る。 

 

 近年、こういった強いメロディを嫌う傾向があったように感じる。もちろん粗をさがせば、似たようなメロディというものは横溢している。なにをしたって「○○の剽窃だ!」と言われてしまう。そうして人類はメロディを放擲し、ラップという手段を講じた。それはサウンドメイクでもそうだ。しかしキラーズはちがった。真っ向から立ち向かっている。真の勇気とはこういうことでは? と思いますね。

 

 うれしいのは「Run for Cover」や「Tyson vs. Douglas」のような疾駆する曲があったことだ。とくに「Run for Cover」は、それは彼らがファーストアルバムで収録した「somebody told me」のごとき、ほとばしる煌きがある。しかしやはりサウンドは、しょぼくれている。前時代的だ。でもくっそかっこいい。ギターの音色も、通低するベースのルート弾きも、ドラムのスカスカした音も、もう旧弊なものだ。でも、もしかしたら、これが彼らが今思うロックなのかもしれない。

 

 音楽のありかたが変わっている。手軽に、手元の端末でストリーミングで聴くことができる。私だってアップルミュージックで聴いている。そしてなによりイヤホン技術の発展で高音質で音楽を享受できる。すばらしいことだと思う。

 

 そうして重く、激しく、詰め込んだ音たちの洪水が、世界中の耳元で鳴っている。それにたいする抵抗なんじゃないかな、なんて思った。このひなびたサウンドは。「Rut」という三曲目の奥で鳴っているシンセのポコポコした音なんてのも、じつに回顧的だ。八曲目「Out of My Mind」のなつかしき音のアンサンブルはなんなんだろう。九曲目の「The Calling」だって、いなたいギター、それはぎりぎり歪まない程度の音のブルージーと形容されるであろうフレーズは、たしかに一週回って目新しいものなのかもしれない。

 

 彼らは自分たちが聴いて育った音楽を体現したかったのかもしれない。それは現代、決して絢爛豪華なサウンドではない。時代を感じるものだ。それはジャケットアートワークが示している貝殻が示唆しているのではないだろうか。このアルバムには、螺鈿を散りば めたような、控えめに鈍い光を、でもたしかに内在させて光らせているような、奥ゆかしい、とても美しい眩耀を感じた。

Wonderful Wonderful

Wonderful Wonderful