まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

はてなプロを更新した。ネットは弱者のためにある

 おれはまた一年ブログをつづけるつもりなのだらうか。ってゆうか、ブログを書き出して一年と半年も経ったのか。感慨深いものはない。

 

 

 でもこれだけやると思うことがある。ネットで人気のでる仁は基本的に「弱者」のたちばをふりかざしてくることがおおい。「ふりかざす」というワードに侮蔑の意味をもたせてしまったかもしれないが、弱みというのはブログにおいて武器になるのだなぁとおもう。

 

 そこで私も弱みを発表したい。それでおなじような人びとと結託して、なかよくなって人気を得たい。だから言い難いけど、つらいけど、私の弱みを、ってゆうか弱点をはなしたい。じつはわたくし陥没乳首です。

 

 きほんてきに乳首というものはメラニン色素のかんけいで部分的に色が濃くなっている。それと肌との境界線を乳輪のはじまりの場所として、その同心円の中心にひとつ隆起した突起点がある。これがふつうの乳首なんだが、わたしの常態である乳首はつねに埋没している。

 

 もちろん刺激がくわわれば陥没している乳首は勃起し、ひとなみの人生をおくることはできる。物理てきな刺激もそうだが、この冬のような凍えるさむさ、というのは私の乳首を突起せしめる。

 

 はじめてそれを意識したのは中学のころだったとおもう。林間学校で入浴の時間に友人に指をさされ、「なんで乳首立ってないの?」といわれたのだ。

 

 はずかしかった。むろんプールの時間もはだかになることがあったので、そのときも指摘しようとおもえばできたのに、なぜこのタイミングで… とおもった。しかしよくよく思案投げ首してみれば、プールのばあい、冷水により乳首はしぜんと刺激をうけ、うひひ、からだは素直じゃねぇか、つって突起せしめることができたのである。

 

 しかし、風呂はべつだった。たしかにみんなの乳首はやわらかくそびえている。しかし、わたしの乳首はやわらかいときにはうまっている。立つときというのは皮膚が凝固してひじょうに堅いのである。神は無慈悲にも私にまともな人生をあたえてくれなかったのだ。

 

 それから私はできるだけはだかになるとき、計画的に乳首に摩擦をあたえてからはだかになった。しかし人工的に突起せしめた陥没乳首には時間制限がある。「もってくれよ…」とおもいながら誰よりもはやくプールに飛び込んだ。

 

 それからというものの陥没乳首におびえて生きた。むろん、私は強い。強く生きている。だからいじられた場合でも「めっちゃレアやろ」ってな具合に笑いにかえた。でも心のなかでは涙をかなぐり捨てていたのである。

 

 高校くらいになるとあきらめがついた。このまま俺は陥没乳首という重い十字架を背負って生きていくんだ。これは仕方の無いことなんだよ。神さまなんていない。とおもった。

 

 そんなときだった。友人の寺田君がわたしの乳首に目を注いだ瞬間、まんまるとその眼球をむいたのである。「言われるな」そうおもった瞬間、寺田君は云ったのである。

 

「もっちー、乳首めっちゃきれいなピンクしてるね」

 

 青天の霹靂とはこのことだろうか。否、そうではない。ぎゃくである。暗澹と立ち込めていた真っ黒な暗雲が割れ、一筋の光明が垂れたのである。救いであった。神は寺田君だったのである。というか、私は気がつかなかった。自分のマイナス面ばかりを見てそこにあるプラスの部分、天稟の才能に気がつかなかったのだ。

 

 これは大いなる人生訓としても役に立つとおもう。ひとはマイナス面ばかりを捉えがちであるが、一箇所でもその後ろ暗い思いをすることがあると、ほんとうは誰よりもすばらしい素質に気がつかない。これはたいへんもったいないことである。

 

 だから、自分に弱みがある。もうだめだ。と思っている諸君に伝えたい。その弱みのなかにも、粛々と輝く光があるはずだ。私のばあいは陥没乳首という巨大な闇にのまれ、目を凝らさなかったのでわからなかったが、たしかに輝いていた。わたしのきれいなピンクの乳首はずっと輝いていたんだ。怖いかもしれない。ぬらりとした闇に足を踏み入れるのは雄渾な戦士でも戦慄するだろう。だけど、真の勇気を鼓してほしい。そこにはきっと、自分のさがしていた「なにか」があるはずだから。なんだ今日の日記どうした俺。