まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

きのこ帝国 の曲っていっつも雨が降ってそう

 おれが世話になっている はてなブログで、今週のお題「雨の日の過ごし方」というのをやっている。なので、雨の日に聴きたいアルバムでも書こっかな、なんておもったのだけれど、やめた。めんどくさかった。

 

 ただ、なんとなく、きのこ帝国のアルバムのふんいきって、雨っぽいな、とおもった。「いや晴天です」って感想のひともいらっしゃるだろうけど、おれの感想は「雨」なんです。ちなみにおれは、きのこ帝国をさいきん聴きはじめた俄です。

 

「eureka」というアルバムから聴いたのだけれど、舌を巻いてしまった。これ超かっこいい。いうなれば、沛然たる雨が降っているような感覚がある。

 

eureka

eureka

 

 

 びっくりしちゃったのは、やはり「春と修羅」である。高名な宮沢賢治のタイトルをそっくり剽窃しているわけだが、狂気とどうしようもない焦燥感、それを見据えた諦念に充ちていて、とてもすばらしかった。生ぬるい空気のなか、冷たい闇の雨に打たれているようなかんじ。そのあとにつづく「国道スロープ」という曲も、しめり気を帯びた漆黒の夜半を疾駆する感があり、好きだな、とおもった。

 

 きのこ帝国はシューゲイザーというジャンルで括られることがおおいようだ。しかし、果たして上記二曲がシューゲか? となると、そうでもない気がする。たしかに、スクイールするようなギター、その、うなる、荒ぶる、ノイジーな音像を、深く森閑させるリバーブの音色は、たしかにそれっぽいとおもし、アルバムタイトルになっている「ユーリカ」なんてのは、重ねた音の残滓が心象深いシューゲイズチックだとおもう。

 

 余談であるが、おれはシューゲイザーの音楽テーマって、「隔絶による逃避」だとおもう。個人的にそうおもうだけで、音楽のジャンルが企図するものなんてなにもないとおもっているけれど。

 

 つまり、音の洪水、厚みのある音像によって障壁を構築し、幻想的な世界を創りあげ、そこに身をおいて現実から隔絶、そして逃避する、みたいな。ゆえに、テクニックを披瀝させる、というよりは、ふんいきを醸成ささせることがメインであって、まぁ言ってしまえば演奏がかんたんなのですね。

 

 そんなふうなシューゲの逃避的な曲もあるが、春修羅のような現実を破壊せしめるようとするパンクロックな曲もあるなぁ、きのこさんは。なんておもった。余談終わり。

 

 その次に「渦になる」というのを聴いた。初手からシューゲイズ感がすごかった。おれがこのバンドにかんじる「雨」感はおそらく、この退廃的で幻想的な、むせ返るような濛気する「霧のなか感」、いわばヒューミッド、湿度感からくるのだとおもう。

 

渦になる

渦になる

 

 

 大気にみちた粒子は、降りそそぐ光の筋をかくじつに具現化するように、ディストーションとリバーブの霧のなか、シングルコイルのフロントピックアップのリフレインが、一条の光となって降ってくるような覚えがある。

 

「渦になる」はそんな霧のような雨、というか湿度があった。スクールフィクションを聴くと、そんな霧のなかを駆け抜ける感があって、いつのまにか身体髪膚が湿り気を帯びているような感覚である。

 

 ボーカルの、焦点の結ばれない森田童子のような蜃気楼のような声も、かくなる深い霧のようなやさしくて悲しげなふんいきを醸成させているのだとおもう。ときおり現実との闘諍をするような強い発声もまた胸を撃つ。

 

 そのあと聴いたのが「ロンググッドバイ」というミニアルバムである。まぁチャンドラーのタイトルに魅惑されたのだが、これがまたとてもよいミニアルバムだった。ジャケがすごく好き。

 

ロンググッドバイ

ロンググッドバイ

 

 

 これは雨が降っている、というよりは、雨上がりの水たまりを跳ね上げるような、鮮烈な光と瞬間の映像、のようなアルバムだとおもった。一曲目からすごくポップ。バンドがポップになることを、聴衆への阿諛追従だ、と感じるひともおられるかもしれない。

 

 けれども、そもそもきのこ帝国というバンドのメロディはポップだとおもう。曲のタイトルを見るかぎり、作詞者の趣味が読本だったりするのだろう。その詞がのるメロディ、いわば、詞という感情をのせられる旋律が、とてもわかりやすいバンドであるとおもう。

 

 ゆえにおもうのだが、きのこ帝国は、バンドのジャンルとしてシューゲイザーをしていたのではなく、バンドの一定の曲の容れ物としてシューゲイザーというのを選んだだけなのではないか? 芯にあるのは、ただメロディが生きる世界観を構築したいだけなんじゃないか、なんておもったのは、次に「フェイクワールドワンダーランド」というのを聴いて、やっぱなーなんておもった。

  

フェイクワールドワンダーランド

フェイクワールドワンダーランド

 

 

 一曲目の「東京」がくっそかっこいい。これも雨っぽいかんじをうける。驟雨に打たれたアスファルトのつめたい無機質なにおいが、ありありと立ち昇ってくるような印象がある。あと、なんだか夜っぽい。闇に染まった県道が、信号機やヘッドライトやテールライトを反射しているような光彩陸離がある。そういう雰囲気の醸成が上手なバンドだとおもう。

 

 このアルバムは、なによりきのこ帝国というバンドが「やりたいこと」が鮮明にでているようなアルバムだとおもった。そのポップぐあいもさることながら、なによりもチャレンジングなアルバムだな、とおもった。ユーリカにくらべ、「ちょっとこういうのやってみよう」みたいなものが増えたような印象をうけた。二曲目の「クロノスタシス」とか。ベースがんばれ。

 

 なによりも小癪だったのはアルバム曲の「フェイクワールドワンダーランド」で、フォーキーな曲なのだけれど、三拍子が四拍子になるところ。アレンジとしてはべつだん「すごい」とおもうものでもなく、だれでもおもいつく陳腐なものだけれど、そのルバート的にいれた一拍の強力な変化が、アップテンポ調から落ち着いた曲調に移行させる布石となって、まるでこのバンドの次のアルバムを象徴するようだな、なんておもったりした。

 

 で、「猫とアレルギー」というアルバムを聴いた。きっと賛否があったろうな、とおもった。ポップすぎるのである。

 

猫とアレルギー

猫とアレルギー

 

 

 おれはあまり歌詞に瞠目しないのだが、世界に憂さを散ずるような詞ではなく、内省的にはぐくんだ、ちいさな日常の気持ちを歌っていることが、かくなるアルバムにはおおくなったような気がした。

 

 おれはこのアルバム、とても好いアルバムだとおもった。そして、きのこ帝国というバンドは正直なバンドだな、とおもった。

 

 きっと求められている音は、初期のシューゲイザー的なサウンドスケープだろう。それは本人たちがいちばんわかっているのだろう。しかし、人もバンドも変化するのだとおもう。その変化にたいして、もとめられたシューゲイザーをやることが、彼らの音楽なのか? というと、おれはそうではないとおもう。自分に嘘をついてまでやる音楽に意味があるのか? それは商業的な意味や、虚栄心を充たすためにあるのだろう。そうではなく、自分たちに正直に、やりたいアルバムを作った、というような意志がかんじられた。

 

「春の物憂い糸のような雨がそそと降っている」と書いたのはたれであったろうか。そんなイメージを受けた。やさしくて、やわらかく、けどちょっと気だるい雨。むろん、口当たりのよいアルバムだとおもう。

 

 ロックアルバムか、と問われればポップアルバムだし、まぁおれはポップスはすごい好きだけど、このバンドが「変わったな」と言われることを恐れずに作成したという事実はかっこいいとおもう。

 

 このあと「愛のゆくえ」というアルバムが出ているのだが、じつはまだ聴いていない。聴いて感想を書きたくなったらこの日記に追記しようとおもう。ってゆうかユニバーサルなんだ。メジャーじゃん。

 

愛のゆくえ

愛のゆくえ

 

 

 ただただ音楽がつくりたいバンドなんだな、とおもった。それを正直に好きな音楽で体現する。上記したけれども、シューゲイザーの音楽も、きっと彼らが好きで、「これをやりたい」という意志をもってそのフォーマットを利用したのだと勝手にそうおもった。

 

 だからこそ、なのか。きのこ帝国の演奏には、一本の槍のようなものがとおっていて、なによりも俯仰天地に愧じず、音が堂にいっており、どのアルバムにも、バンドメンバーが放出する核のようなエネルギーの方向性が、まっすぐ聴衆に向かっているようなイメージをうけた。 さいきん見つけたいいバンド。こころに感動の雨がふるぜ。ショーシャンク。