「生きてぇ~ることが、つらいなら~」って、あっ、直太朗それそれ。生きているのがつらい。そんなときがある。でもその淵源は、他人からみれば、取るに足らない、歯牙にもかけない、事も無げにしてしまう、そんなことばっかりである。よって、情状酌量の余地がなく、おれはいつだってひとりぼっちだ。
イエローモンキーっつうバンドが「スプーン一杯ぶんの幸せを分かち合おう」なんて、ちょっと違法なにおいのする歌詞をうたったが、おれはいま小さじ一杯分の憂鬱に悲しみと苦しみを抱いている。
小さじ一杯。というと、だいたい三グラムである。おれは屡クッキングをするため知っているのさ。小さじでハチミツを掬い、調理鉢に投擲したばあい、小さじにはほんのすこしのハチミツが残る。これが今回のポイント。すなわち、悲しみと苦しみの原因である。
この小さじに残ったハチミツは、こそげとっていれるべきなのか。それとも廃棄してしまっていいものなのか。そういうことはっきりしてほしい。レシピには、じっさいのグラム数ではなく「小さじ一杯」としか記載されていない。グラムで書いてくれればこんな困ったことにはならないのである。
そいで、こまったなー、と逡巡しても、説明書によくありがちな「困ったときは」の項がレシピには存在しない。まぁあれはあってもきほん役に立たない。おれがひつような情報はいつもそこにない。コンセントは入っている。
おれの人生はいつも間違った道をチョイスしている。だからきっと、独断をもってハチミツの処遇をきめてしまえば、結果として料理ぜんたいのバランスを崩し、食うのに呻吟する料理とはいえない物体になり果て、すべての食材を反故にしてしまう。お百姓さんに顔向けできんよ。
しかし、さいきんでは、レシピ動画、なんてものが市場に横溢している。これだよこれ。こういうのがデジタルの正しい使い道ってんだよ。つってちょっくら拝見。そしておれは絶望する。
レシピ動画では、小さじを使っていない。じぜんに用意された小鉢に、小さじ一杯分のハチミツがはいっており、それを投擲していたのだ。じゃったら、その小鉢の動息を活目せよ、ちゅうもんじゃな。はは。イエスアイドゥー。で、そうする。小鉢は、ぱっといれておわり。つまり、そこにハチミツは残っているのである。おまえはそれでほんとうにいいのか? それが人類の答えなのか?
残ったハチミツはおそらく、そのグラム数を計量すれば〇.三グラム。たぶん。つまり、小さじにすれば一割である。われわれ大人タイプのにんげんの質量感覚からすれば、〇.三グラムなどどうでもいいことかもしれない。でも小さじにとっては、大事な大事な、かけがえのない一割の質量である。
それをそのまま廃棄する。つまり、小さじ一杯三グラム、というのは見せ掛けの数字だったのである。世の中嘘ばっか。ハチミツたちは「三グラム出動です」と言い条、けっきょく二.七グラムしかしようされない。残りのハチミツはしょせん捨て駒だったのだ。大人ってきたないぜマジで。
きっとおれがハチミツだったら、この捨て駒のほうだろう。いや、現実。おれの人生は捨て駒のようなものだ。意味もなく駆りだされ、いざこざにまきこまれて死んでいくのだ。
そんな小さじに残ったハチミツをみていると、「あんたもいてもいなくてもいいんだよ。あたいと一緒さね」なんて悄然としてしまう。だが、それだけでは物語が絶望のままである。
だから、おれは思ってもいないけれど、気丈にふるまい、世俗を解脱した姉御肌をもち、「なーんてね。でも、だったら気楽に生きようじゃん。あたいはそうおもうよ。強く生きなきゃさね」なんて言って、さいごに救いをもたせたい。はっはーは、小さじだけに救い(掬い)で終わるんですな。そんな憂鬱、一顧だにしないぜ。