ドラクエⅤで、主人公の最終的な称号が「ゆうしゃのちちおや」というところに、おれはなんだかグッとくる。
きっと「グランバニアの王」よりも、「勇者の父親」であることのほうが世界的には安全性がたかく、どうじに重要な事柄だからそういう称号でおちつくのだとおもうのだけれど、けっきょく親は子どもがうまれたらずっと親というか、もう生涯変わることの無い普遍の事象なのだな、なんておもってグッとくる。
おれも父親になってもう四年が経つことになる。明日誕生日なんすよ、子どもの。はやかった。というか、いつのまにこんな大きくなったのよ。ふつうにめっちゃしゃべる。つうか言うこといちいちおもしれぇの。けっして言うことをきく良い子ではないけれど、おれはようたが大好きなんだよ。
父親は父親として、もう人生サブというか、送りバントというか、あきらめ、みたいなところになるけれども、それってなんだかちょっとちがうのかも、とおもったのは、こないだの運動会のことである。
保護者競技で、おれたちはクラス対抗のつなひきをした。ほかのクラスのチームに比しておれのチームの士気は低かった。腰がうんぬん。無理しないようにかんぬん。仕事に支障がでないようになんとかかんとか。
おまえらほんとうにそれでいいのかよ。とおもったが、そういうった懈怠と惰弱のふんいきはチームを蝕むもので、「みんなそういうかんじなんですねー」っておれ自体もなってしまって、まぁちょっとそこは反省すべきなのだけれど、案の定おれたちのチームは負けてしまった。
「あちゃあ、負けちった」というふうに観覧席の妻と息子をふりかえってみると、息子は妻に抱きついていてその顔が見えない。眠いのかな? って、もうワン勝負したところ、また敗戦。なんだか砂を噛むような試合であった。
席に戻ると息子は或る程度落ち着きをもどしていたが、まだすこし歔欷をのこしていた。妻曰く「パパが負けたのが悔しかったんだって。まさかそんなことでこんなに滂沱たる慟哭が発生するとは周囲のにんげんはゆめゆめおもわぬだらふ。歴史的仮名遣ひ」とのことであった。
負けん気の強い性格であるとは存じていたけれども、息子じしんが負けたのではなく、おれが負けたことで、そんなことになるとはおもわなかった。とどうじにとても自分が恥ずかしくなった。
これはチーム戦であり、この膝についた土が個人の責任によるものではないとしても、おれは何事にも勝たねばならない。それはけっして自分のためではなく、おれを最強だとおもってくれているひとのためだと気がついたのである。三十代、愛するためのこの命だってことに、あぁ気付いたなぁとエレカシが歌ってたけどマジだね。
後顧の憂いというか、おれはあそこで「腕で引くのではなく脇で縄を固め、体重で引くべきであって、それは平行よりも地面に垂直に力をかけることを意識せねばならない」というべきであったのかもしれない。
それで負けたのであれば、カッコいいとおもう。ただただぼんやりとした堕落の空気に飲み込まれるよりはマシだったとおもう。もちろん勝つに越したことはないけれども。
ミスターミスターチルドレン*1桜井がヒーローという曲で言っていたけれども、父親はやっは男の子にとってヒーローでなければならないのかもしれない。桜井の描写するヒーローは優しげなチンダル現象の光につつまれているけれども、おれの息子の思い描いているヒーローは超人ハルク的なものであって、おれはその期待に応えていかなければいけない。それはちょっと無理したってそうでなければならないとおもう。
虎は死して皮を留め、人は死して名を残す。というが、死んでもおれの名前など残らない。かなしいことに小市民だからだ。そういえば超人気コミック、ワンピースでヒルルクが「人は人に忘れられたときに死ぬ」と言っていたけれども、そうなのかもしれない。
でも逆にそれってつまり、おれより長生きするであろう息子の心におれがいれば、おれは超生きられるってことになる。すげぇじゃん。その息子の心にいるおれはいつまでもかっこよくいなければならない。主役でいなければならない。なんだかそうおもった。
父親像を知らないおれに、かっこいい父親像を教えてくれたのはなにを隠そうおれの息子であった。まぁあと野原ひろしとかもだけどね。パパ、がんばってかっこいいユーチューバーになるからね。
*1:企図した重複で誤字ではない