まだロックが好き

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おめおめと生きている日記

フォカッチャをいつ食うのかという問題

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 マタイ伝かなんかに「人の生くるはパンのみにあらず」とか書かれていて、そうだねそれが人を人たらしめているのだね煩悩だね、なんて感じることもあるのだが、そんな折に、「パンのみです」と威風堂々たる登場をするものがある。それがなにをかくそうフォカッチャである。

 

 ヨーロッパの食い物が好物である。そのなかでもとくにイタリアに関しては特別な感情を抱いている。リストランテのような格式ばったところよりはトラットリアのごとき肩肘張らずにすむ場所が好きである。

 

 ランチもやっているトラットリアの暖簾をくぐることがある。損をしたくない、と常々生きているので、ついつい「お得」という罠にかかり、ちょっと高めのセットを選んでしまうのだが、ここで一朝一夕には解決できぬ難問題に対面することになるのである。

 

 前菜を食う。そして主菜が運ばれてくる。その矢を継ぐ合間に、よく「フォカッチャ」なるパンが配膳される。このフォカッチャこそが人生を悩ませる一因なのである。

 

 米文化の影響下でおおきくなった筆者にとって、パンというのはすこし難解な食い物であることはぜひとも忖度してほしいところであるが、おそらくこれを読んでくだすっている諸兄にも心あたりがあるのだと断定して話頭を進めたい。

 

 きほん、パンを米の代替品目であるとみなすと、そこにひつようなのは「おかず」である。しかし、ランチの主菜で「パスタ」や「ピッツァ」を選択している場合、主菜はまにあっているのだから、このパンは一体どういった立場で存在しているのか、と考えあぐねてしまうのである。

 

 しかもフォカッチャはどうも単品でやってくる。前菜中でもなく、主菜にタイミングを合わせるでもない。単身一騎でテーブルに乗り込んでくるのである。このパンどうすりゃいいんだよ。

 

 そんな過日。私はイタリアの食事を提供する店にはいった。前菜を食べ、パスタが配膳されるのをいささかの期待とともに待っているさい、やはりあいつがやってきたのである。フォカッチャである。

 

 いったいおれはこのパンにどういった感情をもてばいいんだろうか。そこで私は諜報活動を試みた。周囲の客がどのようにフォカッチャを処理しているのかを偵察したのである。

 

 よく見受けたのが、パスタの残り汁をフォカッチャで掬って食う。フォカッチャにパスタソースをからめさせて食う。というハウツーである。なるほど、とおもった。

 

 パスタを食うとどうしてもソースが皿に残る。現代はエコの時代である。そのソースを廃棄するにも下水処理の関係もあり、口に運んでしまったほうがこの地球のためなのである。しかし気取ったイタリアンで、皿に顔をちかづけ、舌をつかって皿をねぶるなどというのはやはり人間の尊厳が失われてしまうのである。

 

 そこでフォカッチャである。この小麦原料を使役してソースをからめとる。なんてエコな活動なんだ! ちょっと感動。すなわち私がいますべきことは、このフォカッチャをすぐに胃袋にはこぶことではなく、主菜が来るのを待つことなのである。

 

 しかし前菜を胃袋へ落とした結果、どうやら胃液の分泌がはなはだしくなったのか、感じていた空腹がより鮮明に、克明に、クリアーになってくるのである。

 

 そういえば、以前ほかのイタリアンで、空腹に耐えかねフォカッチャを食ってしまったことがある。我ながら馬鹿なことをしたとおもう。しかしその店では、哨戒業務を担当するボーイがいたこともあり、「フォカッチャのおかわりいかがでしょうか」という提案をくださり、甘んじて二度目のフォカッチャを味わったのである。

 

 だが、問題はこの店がフォカッチャのおかわりを推奨してくださるとは限らないということである。もしもここでフォカッチャを食ってしまえば、地球の環境活動に貢献できないことになる。

 

 そんな葛藤のなか、ふとフォカッチャに触れてしまった。そこで新たなる思惑に出会ってしまったのである。フォカッチャはあたたかかったのである。

 

 これは困ったことになったぞ。つまり、おれがフォカッチャの立場であれば、できれば温かいうちに食ってほしい。温かいままフォカッチャのみで食えば、フォカッチャはフォカッチャとして産まれ、そしてフォカッチャとして生涯を全うすることになり、やはりそれはフォカッチャとしては本望だとおもう。

 

 しかし主菜をねぶるためのフォカッチャであれば、それはやはりサブの人生。それはそれでよかったのかもしれないが、やはりフォカッチャとしてはフォカッチャのままで人生の役割を完遂したいとおもうと斟酌してやるのが人情である。

 

 このまま主菜の到着を待ち、冷めたフォカッチャで地球のエコに貢献する。蓋し正しい行いだとおもう。善行だとおもう。天国にいけるとおもう。でもおれは今腹が減っている。そしてフォカッチャもフォカッチャとしての意思をその温かさで賢明にアピールしているではないか。

 

 地球がなんだ。それがどうした。おれひとりがフォカッチャを食うことで地球がすぐに滅ぶわけでもあるまい。それより、今ここで感じているおれの素直な気持ち、フォカッチャの純情な気持ちを汲んでやるのが、それが人間なんじゃないのか。

 

 だから私は食った。フォカッチャをそのまま食った。やわらかな小麦の香り。やさしい小麦の甘み。ふんわりとでもしっかりとした穀物の味。夕風に靡く黄金の穀倉地帯が浮かぶ。

 

 これでよかったんだ。私たちは好きなようにフォカッチャを食えばいいんだ。それが人間らしさなのだとおもう。その結果、この地球がどうなろうともうまいフォカッチャが食えるのならば、それでいいのだとおもう。そうおもう。