まだロックが好き

まだロックが好き

おめおめと生きている日記

小便チョロ太郎

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 四歳児に「おふろはいるから、おしっこしといで」と命令している。さらぬだに能動性をもって小便に行かぬ四歳児である。かくせざれば、浴室にて小便を放つ、といういみじき禍事になりかねぬのである。

 

 するとどうだろう。四歳児は「パパもいっしょにきてくれよ」と提案をもちかける。一般的に「連れション」というのは、日ノ本に生まれた男児の須らく通過する社会的コミュニケーションである。よしきた。では共に行こう、いざ雪隠へ。と相成るわけである。

 

 そうして小便をする四歳児を観察していると、ちょろっと出して終わり。ずいぶんしょぼくれた小便なのである。人を馬鹿にしている。むろん、「おしっこいきたい」と切実なる愁訴をきたすケースであれば、ちょっとした小火を鎮火できるほどの和尚水を放つことができる。

 

 そういえば幼少の砌。おれは祖父とひとつの便器に向かって、それぞれの陰茎を差し出し、ともに放尿した記憶がある。祖父の陰茎からは、夥しい量の尿水が、滂沱たる勢いで流出していたのを憶えている。

 

「おれもいつかはあんなすごい小便ができるようになりたい」と当時、純情をもって成人に恋焦がれたが、おれは今、あれほどの凄まじい小便ができているのだろうか。ちゃんと大人の量が出てるんでしょうか。…はっ!? おれは未だに小便チョロ太郎なんじゃあるまいか!? と、追憶のメモリーの果てに、心は千々に乱れてしまうのである。

 

 しかしこうして四歳児の放尿量を研究していると、ああ、おれもだいぶ大人になったな。ゴイゴイスーな量のおしっこが出ている。思えば遠くに来たものだ。と少しくセンチメンタルな気分に浸ってみたりするのである。

 

 子育てをしていると、どうも過去の自分が息子に重なる。まるで幻影を追っているようである。きっと息子も、おれの瀝々と水面を打つ小便を目撃したら、きっとびっくりしちゃうだろう。そしてきっと子どもたちは、こうやって「はやく大人になりたい」と願うのだろう。

 

 君の願いはちゃんと叶うよ。楽しみにしておくといい。バンプオブチキンの「魔法の料理」という曲を唇に灯しながら、浴室でふたり。ちいさくて柔らかな肌をビオレボディソープで洗浄するのである。なんだかとても良い話しである。

 

 おれはいつのまにか小便チョロ太郎を卒業した。今は息子が小便チョロ太郎である。そしていつか息子の息子*1が小便チョロ太郎になり、でも本人*2に小便チョロ太郎という自覚はなく、大人になった息子が、その息子*3のちょろっとした小便を見て、「おまえ小便チョロ太郎だな」なんて笑ったときに、きっと小便チョロ太郎という概念と称号が、ひっそりと静かに脈々と受け継がれていくのだろう。

 

 ちなみにみなさんは「小便」を「しょうべん」と読みますか? それとも撥音便化させた「しょんべん」派ですか? うちではもっぱら「しょんべん」です。なので本稿では「しょんべんチョロ太郎」と読んでいただけると有難いです。読み方に水を差すようで申し訳ないのですが。

*1:

*2:

*3:

ととかととかか

 お侍様が旅籠かなんかにご入店するさい、「許せよ」と一言言放つ。超かっこいい。「失礼する」でも「御免」でもない、「許せよ」。これが好い。「許す」という赦免の気配が濃ゆい言葉を、命令形で言う。「許す」にそんな応用系あるぅ? とびっくりしてしまう。

 

 だからこそ使用したさい、もの珍しさとともに孤高の存在感が高まる。おれは孤高の存在でありたい。ロンリーウルフだ。けっして居丈高な態度や傲慢のかんじを出したくは無いが、かっこよくありたいのである。

 

 過日。近所に珈琲店があたらしく普請された。これは「許せよ」のチャンスであるとおもった。この「許せよ」には「ちょっとした逗留をご許可願いたい」という意義があるとおれはおもっているからだ。だから栄養補給が主眼であるレストランや、物品購入が目的のホームセンターなどではどうも使いにくい。

 

 チェイスザチャンス。かつてアムロナミエという歌手がそう歌った。珈琲店ならばちょっとした逗留、すなわち休憩を目的としてもおかしくない。いざ行かん、珈琲店へ。と眦を決してその珈琲店へ向かったのである。

 

 結果から言うと、「許せよ」は失策におわった。小心翼翼たるおれは言えなかったのである。営業を開始したばかりの店舗には、たくさんのひとが輻輳しており、カランコロンとドアーをあけた鼻先には、もうすでに順番待ちの列がぎゅうぎゅうに詰まっていたのである。

 

 しかし、とてもうまい珈琲であった。座敷もあったので子連れにもやさしい。せっかく並んで珈琲だけ、というのも人生に味気がないので、店が巨大な写真をつかって推薦している、オカブランというパンケーキをも注文したのである。

 

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 はじめからパンケーキと言えばいいじゃん。とおもうけれども、おそらくなにかしらの隠された意図があるのだろう。そんじょそこらのパンケーキとはわけがちがう。そんな鼻息の荒い店側からのプレッシャーをひしひしと感じる。おれはそういうの嫌いじゃない。

 

 ただ、ひとつのパンケーキを家族でわけあうのもどうも吝嗇くさい。おれは小腹が減いていると自己暗示をかけ、ちょっとしたものを食おうと企図したのである。よって、ちょうどランチタイムがやっていたので「日替わりパスタ」、これも注文したのである。

 

「あ、あと…日替わりパスタで」

「パスタなんですが、本日は彩り野菜のホワイトソースと枝豆とトマトのジェノベーゼになります」

「はい、それで構いません」

「?」

「!?」

 

 膠着状態であった。そのとき妻が容喙し、テーブルに備え付けてあったおしながきを手前に差出した。「これか、これのどっちかだって」と教授してくれたのである。おれは、じゃあホワイトソースのほうでと申し上げ、御用聞きはやれやれといった体(てい)でキッチンへと消えたのである。

 

 情けないことだが、いったいなにが起こったのかわからなかった。世界がどうにかなってしまったのか。はたまたおれの言語がおかしかったのか。妻と御用聞きの間では意思の疎通は成立していたが、おれにはその思念が伝わっていなかった。

 

 すなわち、日替わりパスタは選択性であり、「彩り野菜のホワイトソース」もしくは「枝豆とトマトのジェノベーゼ」のどっちにするのー? と御用聞きは訊ねていたのであった。

 

 たしかにふたつの選択肢があるばあい、AとBどちらにする? と訊く。けれどもメニューに「日替わりパスタは選択性です」と、眼光紙背に徹しても、そんな記述は見当たらなかった。

 

 であれば、きほんてきにその二択の結びは「か」であるべきではないのか。「パスタなんですが、本日は彩り野菜のホワイトソースか枝豆とトマトのジェノベーゼになります」と訊くべきではないのか。アンドではなくオアで結ぶべきではないのか。

 

 しかし、選択の余地のない人生なんておもしろくない。おれもそうおもう。珈琲店は日替わりパスタにおける選択の自由を客にゆだねた。うれしいサービスである。そして言語の結びの「と」か「か」も御用聞き自身のゆだねたのである。ひどく鷹揚な珈琲店である。

 

 平成も終わる。歴史のできごとを学問すると、ひとびとは自由のために闘った。選択の無い世界へ反発した。自由とは反発するエネルギーである。だからいいんだよ、「と」でも「か」でも。いちいちそんな粗末なことを気にするな。許せよ。

フルグラ生活

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 どうもおれは無感性なにんげんであるようだ。おまえの感性もう死んでいる。っていうかしかし、みなが口をそろえて「地獄だ」ということでも耐久できるのは、この無感覚が淵源ではないのかと憶測している。つまり、おれは毎日同じものを食っても平気の平助なのである。

 

 昼餉にコンビニ弁当を見繕った。からあげ弁当である。つい先日もからあげ弁当を食った。そのさい朋輩より、「おまえいっつもからあげ弁当食ってんな。飽きないの?」とやや冷笑気味に指摘されたのである。

 

「いや、おれ毎日同じもの食っても飽きないんだよ」と俯仰天地に愧じず返答したところ、朋輩は「そんな馬鹿なことがあるわけない」的、侮蔑の念を綯い交ぜにした嘲弄の表情を浮かべていたのである。

 

 憐れな男である。はっきり言っておれのほうがかしこい。毎日ちょろちょろ陳列棚の前で右顧左眄、「なににしよっかなー」などと愚考するよりも、ちゃっ! と決め手を打ってしまったほうが時間の経済である。

 

 エレファントカシマシのボーカル宮本氏はほぼ白と黒の服しか持ち合わせていない。「毎日着るものを考えてる暇があるのなら音楽のことを考えたい」という理由である。サムライだとおもう。コンピューターの関連の泰斗スティーブ・ジョブズとかいうひともそう。偉人はいつでも洒脱なのである。

 

 そんなおれだからこそ、朝食をフルーツグラノーラというものにしてみた。いわゆるシリアルという乾燥食品であり、食物繊維が満点で、健康に都合が好いと聞く。きほんそのままでも食えるが、おもにミルクやヨーグルトなどの乳製品にひたして食うのが世俗的らしい。

 

 そんなフルグラ生活も四ヶ月目を迎えた。自家撞着も辞さず、今おれの気持ちを正直に言えば、フルグラ生活、飽きました。もういやです。つらいです。地獄です。毎日こんなものを食っていてかなしくなります。まずくはないんです。ただただつらいんです。

 

 一ヶ月目は順調だった。うまかったのである。ちいさな乾燥パパイヤや木の実がはじけ、甘さや酸っぱさを演出する。口腔エンターテインメントであった。なにより朝餉を思案投げ首するひつようがなく、朝の仕度に余裕ができた。ありがとうフルグラ。うんこもよく出る。

 

 翳りが指し始めたのは二ヶ月目からである。拙宅ではアマゾンで箱買いしてしまったために、在庫が払底するまで、この生活が余儀なくされている。妻はヨーグルトなどを使役して工夫をして食っていたが、どうもおれは駄目だ。こんなもの大の男が食うもんじゃない。

 

 もし仮に、「咎人にそこそこの罰を与えよ」と天啓が舞い降りれば、おれは迷いなくフルグラの刑を処すだろう。ひとによれば三日で限界が来る。精神が崩壊する。人権をかえせ! と叫びたくなる。

 

 無機質な食い物だとおもう。愛が無い。さびしい食い物だ。機械的だ。無性に人生を問いたくなる。おれはなんのために生きているのだろう。時間に追われ、社会に追われ、責任に追われ、さらにはもうひとつの十字架、フルグラにも追われる。こんなに匙が重くなることなんてないよ。

 

 しかしそうなると、ときおり食うあたたかいご飯が、とてつもなくありがたいものだと気付かされる。いつだってだいじなものは失ってからはじめて気付く。ばかね、にんげんって。愚かね、わたしって。ほんともう、わらっちゃうよ。

 

 白米やおみおつけからは立ち込める湯気に、あたたかい家庭の象徴を幻想する。たまご焼き、たらこ、セロリの浅漬け。色合いも素晴らしい。人生とはこうでなくっちゃいけない。さまざまな皿が独立しているが、それがひとつの朝食として機能する。これが健全な社会だ。これが最低限の文化的な生活だ。

 

 だがまだフルグラが残っているのである。拙宅のパントリーで朝日を反射させている。くそぅ。おれも男だ。これは男の意地だ。プライドだ。勇気と根性だ。一度決めたことはやりぬくんだ。それが大和魂だ。

 

 そうして師走。葉月に購入した800g×6袋一箱のフルグラを、ようやく消費しきった。おれはやった。おれたちはやった。妻と随喜の涙を流しながら、おたがいの肩をつよく抱いた。これでやっとふつうの人生に戻れる。あたらしい人生のスタートだ。おれは生き返った。これからだ。カーテンの隙間から差し込む陽光が、いつもよりやさしい朝だった。

 

Anker SoundCore 2 を購入した

 よろず事象に於いて「2」というのは具合がいい。ロックバンドのセカンドアルバムには良いものがおおいし、なによりターミネーターは2が最高である。

 

 むろん駄作と呼ばれるものもあるだろう。しかし、なにをもって「2」の名を冠すのか。そこにはバージョンアップという意味がこめられる。改良の念がこめられているのである。

 

 過日。アマゾンのサイバーマンデーという、割安で商品を販売する行事がネットの世界で行われていた。ドストエフスキー曰く「貨幣は鋳造された自由」である。つまり、割安で物品を購入することは、金銭に余裕がうまれるということになり、すなわちそれは自由な身代に繋がるということになるので、自由を愛する戦士たる自分は、賎しくもアマゾンのページを虱潰しにながめ、結句「アンカー サウンドコア2」というブルートゥーススピーカーを購入したのである。

 

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マーシャル二段重ねみたい

 

 上記一葉のデジタル写真によって、ばれちゃうとおもうのだが、おれはすでにアンカーのブルートゥーススピーカーを所有している。いわゆるこれが「1」というものである。芭蕉の行脚掟に「一、衣類器財は相應にすベし、過ぎたるはよからず、足らざるもしからず」とあるのだが、買っちゃった。まったくもって赤面忸怩たるおもいである。

 

 だがしかし、このアンカー「2」の説明書きによると、「とても低音が出る」との主張である。芭蕉の刻舟求剣に固執するよりも、よりよいベースサウンドで生活を向上させるべきだとおれはおもう。そういった気持ちが日本の経済を良くするのである。これは国益である。

 

 あまり自慢するような耳をもっていないのだが、すこし比べて聴いてみる。なるほど「1」よりも低音が出ているように感じる。低音が出てくると、高音域の鋭さが緩和されるような気がする。なにより音の広がりがとても良い具合である。

 

 ちなみに、おれは試聴するさいビル・エヴァンスという人のトリオジャズアルバム「ワルツ・フォー・デビー」というアルバムを聴く。とても有名なジャズアルバムなので、にわかくさい匂いがぷんぷんするかもしれないが、よく聴くアルバムなので、分別がつけやすい。

 

 ピアノの鍵盤を押し込んだ静謐な残滓が息づいている。ドラムの舞い散るフレーズがパラリとしていて、うまいチャーハンのようである。なによりもベースである。粗暴なロックミュージックとちがってウッドベースを指で撥弦するため、アタック感が抜けない。それゆえに低音のでるスピーカーでなくてはスコット・ラファロのおいしいフレーズがなかなか堪能できぬのである。またこの「ワルツ」ではベースがハイポジションまでフレーズを伸ばすことも屡々あるため、低音の音域がどこまで判然とするのかがわかりやすい。

 

 幾年の空間を隔てたジャズが鼓膜に蘇るようである。ベイシーのスピーカーじゃあるまいし、そんな大仰な形容は馬鹿らしくもあるのだが、「1」に比すれば音楽を「聴く」という行為に徹することができるとおもう。

 

 シンプルなローファイサウンドはオッケー。じゃあハイファイなサウンドも聴かねばならない。おれは続けてベックというひとが去年流通させた「カラーズ」というアルバムも聴いてみた。

 

 このアルバムすごく音がいい。そんなふうに感じる。すべての音帯域が出ているようで、耳にすごい圧がくる。むろん、そこは聴きやすいようにミックス処理されている。もっと良い音のアルバムはたくさんあるかもしれない。だが、ふだん頭の悪そうなデカイ音をならしているだけのロックミュージックばかり聴いているおれにしてみれば、すごい音のいいアルバムなのである。

 

 やはり低音の出力がいい。あと音楽を再生中に本体を持ってみると、すごいぶるぶるしている。内蔵されたメカががんばっているのである。おれによい音楽を届けてくれるために、おまえはそんなにがんばってくれているのか。なんだか泣けてくる。

 

「1」に比べてよいところは、ボタンのたぐいである。押しやすい。しかし起動音は「1」のほうが好き。ピポパ、ピポー! とか言って。「2」はね、シュワーーーン! って音。すでにローがめっちゃ出てる。「わたしって低音すごいじゃないですかぁ?」みたいな主張がある。

 

 しかし、「1」。「1 」とかいいながら、実際は1でもなんでもなく、ただアンカーサウンドコアという名前なのだが、「2」が出てきてしまったので、けっきょく「1」と便宜上呼んでいるだけです。レッドツェッペリンのアルバムみたいなかんじだとおもってほしいなぁ。

 

 この「1」をおれは二年間使用してきた。おもに家事をするときに使う。スピーカーって、使えば使うほど音がマイルドになるというか、そういう向きがある。おれのオンキョーのスピーカーはいつだっておれ好みの音を出してくれる。

 

 そんなふうに「1」もなかなかマイルドな音になってきている気がする。気のせいかもしれないが、この世の万物はすべて脳の錯覚であるのだから、そういう「気がする」ってゆうのは人生においてすごく大事なことだよ、と言いたい。

 

 つまり「アンカー サウンドコア2」、とても良い買い物をした気がする。「1」のほうは妻が使っている。武田航平目当てに仮面ライダーのユーチューブ見てる。グリス人気なのか。グリスの「2」であるグリスブリザードかっこよかったもんな。やっぱ「2」は良いみたい。

 

 

「ピザって十回言って」の起源

 日常的に、ひとを謀り姦計に陥れようとする行為が横溢している。哀れ人類よ。だから世界に戦争がなくならぬのだ。無辜なる人民を瞞着し、おのれの虚栄心を充たす。その愚昧な行為のひとつに、いわゆる「10回ゲーム」という転合が存在する。

 

 小学校の砌。友人からだしぬけに「ピザって十回言って」と懇願されたことがある。友人のたのみも聞けぬほど野暮なおれじゃない。学徒の身分と雖も、これでも日本男児のはしくれ。言ってやろうじゃないかと真率に「ピザピザピザ……」と十回唱えたのである。

 

 するとあろうことか、今度は突拍子もなく「ここは?」と肘を指差し、謎を問いかけてくる。コミュニケーションが一方通行だ。どんな家庭でなにを食えばこんな自分本位の人間ができあがるのだろう。もしかしてけっこう可哀想な家庭なのか? 疑懼の念が蟠るいっぽうで、おれは「ひざ」と応えてしまったのである。

 

「ブッブー! ここはヒジですぅ~」としたり顔してのたまった、あの友人の顔ほど馬鹿らしいものはなかった。一体こんなことをしてなにが楽しいのか。気がどうかしている。やはり友人の家庭にはちょっと問題があるのだ。家庭の不祥事は面と向かって「かわいそう」と言えぬところがつらいですよね。

 

 しかし、おれはなぜヒジをヒザと応えてしまったのか。真相はあの「ピザ」を十回言う、という儀式にあると感づいた。おれってかしこい。つまり「ピザ」という語感に脳が錯覚をおこし、さらには唇も「ピザ」の準備体操をしてしまった。そして四肢の間接駆動部分を「ヒジ」と「ヒザ」などというイ音便、ウ音便の変化だけで差別化を済まそうとした医学会の懈怠によって、ヒジを「ヒザ」というネーミングであると勘違いしてしまったのである。

 

 なんとも浅ましく、さもしい詐術だ。なにより、ひとがひとであるための「お願いを受け入れる」という優しい気持ちを踏みにじっている。意味もなく「ピザ」と十回唱え、さらには質問に答える。それが間違ったときに、待ってましたと言わんばかりに、侮蔑と嘲弄を差し向ける。人間を馬鹿にするのもいいかげんにしろッ!

 

 そうは言いつつも、これ、事情を知らぬ他人に試してみると、おもうように皆口をそろえて「ひざ!」と応える。おもしろい。馬鹿なやつらめ。まんまと思う壺だ。ちっとは考えろ。木偶どもめ。

 

 こうしておれたちは他人をだますことを憶えた。いや、他人をだますことによって快楽を得ることを覚えた。当時の学び舎では、みな雷同したかのように、口を開けば「ピザって言って」の大合唱、一大ムーブメントが巻きおこったのである。

 

 しかし万物は流転する。いずれ「ピザ事変」は波が退くように静まった。そんなピザのほとぼりがさめたころ、友人の某氏より、唐突に「ピザって10回言って」と嘆願された。おいおい、いまさら!? 時代おくれもはなはだしいぜ。いや、ってことは、待てよ。ははん。こいつ腹に一物かかえてやがる。

 

 つまり、今更「ひざ」と応えるものは少ない。ふつうに「ヒジ」とこたえて冷笑を浮かべるだけである。未来が透けてる。しかし、だからこそ。某氏はさらなる罠を仕掛けている可能性もある。つまり移植である。

 

 某氏は後天的にヒジの病に犯された。命に関わるヤバいやつである。これを解決するにはアメリカに行って、ヒザの皮膚をヒジに移植せねばならない。むろん手術は成功。某氏のヒジにはヒザの皮膚がある。つまり、そこは「ヒザ」なのである。

 

 裏の裏は表であるように、某氏は鬼謀をはかった。くそめ。悪は滅ぶべきだ。狡猾な人間には罰がくだり、理非曲直を明らかにせねばならない。ひとを出し抜こうとする人間をどうすれば退治できるのか。つまり相手の権謀にのらず、こちらのリズムに引き込めば好いのである。

 

 よっておれは「ピッツァ」と応えようとおもった。なるほどよくできた答案である。脳も唇も「ピザ」のクラウチングスタート状態なのに、あえて「ピッツァ」と応える。この意外性に相手も舌を巻くにちがいない。はは、今後望月家では「十回ゲームピザver.には、ピッツァと応える」を家訓にし、額にしまって鴨居に飾ろう。

 

 某氏の依頼に、オッケーだ、と首肯し、ピザピザ……と指折り数えると、ほらキタ、やはり某氏は、なんのオリジナリティーも恥ずかしげもなく「じゃあここは?」などといって、ヒジを指差したのである。

 

 むろんおれは準備万端にしていた「ピッツァ」は放った。どうだ某氏め。きさまの考えていることなどお見通しなのだ。そこはヒザの皮膚が移植されているのだろう。そこへ「ピッツァ」のボケの上乗せだ。こちらが一枚上手なのだ。

 

 だがそれは、まごうことなきピザであった。三十メートル先からみれば、トマトソースの朱はなまなましい新鮮な血液にも見えなくは無い。ともすれば、よせあつまったチーズの段は、傷が膿んだあとにみえるかもしれない。つまり遠方から拝見すれば、怪我のようにも見える。

 

 しかし、こうも近距離でみれば、それがピザだと判別できる。某氏のヒジにはピザがあった。某氏はヒジにピザを抱える呪われたからだを持っていたのである。

 

「相手がピザと十回唱え、そいつがおれが指差したヒジを〈ピザ〉もしくは〈ヒザ〉と応えたとき、その場所がピザになる。それがおれのスタンド〈ピザオブデス〉だッッッ!!!」ドッッギャーーーン!!!!!!

 

「突然でした。矢が飛んできたんですよ。それに触れたら、この力が目覚めたみたいで。最初は戸惑いました。だってピザ出てくるんすもん。医者にもいけないじゃないっすか。でもこのピザ、食ってみるとうまいんすよ。だからじぶん、みんなに『ピザって十回言って』って言って歩きまわったんすよ。で、ピザ食い放題。人生チョロいっしょ」某氏はそう語る。「ピザって十回言って」の起源はここにあったのだ。

 

 しかし、10回ゲームが膾炙したせいか、もうヒジをヒザと言う人間が希少になった。どうやら〈ピッツァ〉も〈ピザ〉という単語のストライクゾーンに入っているようだ。某氏はしきりに「これは新しい発見だ」とひとりごちていた。

 

 それから某氏はピザの本場、イタリアでピザの修業をし、いまは日本でちいさなピッツェリアをひらいている。繁盛しているようだ。だが、あのときどうして某氏はおれに十回ゲームを挑んだのであろうか。やはりスタンド使い同士は惹かれあうのか。おれのスタンドは「無駄に長文を書く」というもので、こうしてまた今日も長い日記をかいている。

ギャバ

 良い情報を風聞した。ギャバと称されるカカオ食品を経口摂取することにより、精神の底に蟠った恐怖、怨恨、哀愁、疑惑、嫉妬、憤怒、憎悪、呪詛、焦慮、後悔、卑屈など、いわゆるパンドラの箱からとびだしてきた幾多のストレスを緩和することができる、という情報である。

 

 おれは取る物も取敢えずコンビニに急行した。そんな時代の必須アイテムが、医者の処方箋もいらず、最寄のコンビニでいともたやすく手に入る、という情報も立て続けにキャッチしたからである。

 

 ちなみにここで「おれはすごくストレスに耐えて生きているんだ」ということが言いたいわけではない。世はまさにストレス社会と叫ばれて久しい。けっしておれに夥しいほどのストレスが降りかかってきているとは思わぬのだが、そんなにストレスが蔓延っているのであれば、いちお予防的にギャバを摂取しておこうかな、とおもったのである。

 

 ストレスに多大なる関心が寄せられる昨今、「払底しているかもしれぬ」という不安を胸にしながら、おれはコンビニのチョコレート棚を血眼で検分した。あった。しかし、そこには思いもよらぬ落とし穴が待ち受けていたのである。すなわち「ストレスを低減する」という惹句が大きく印刷されていたのである。

 

 こんな文句がおおきくプリントされていたら「ギャバを所持していること」ニアリーイコール「おれは今まさにストレスに呻吟しています」と図式が成り立ち、おれは自分の苦しみを大々的にアピールすることになってしまう。

 

 はっきり言ってそれはちょっと恥ずかしい。病弱な幼少の砌、おれは喘息という疾病でたくさんの薬品を服用していたのだが、それを給食のとき「おれはこんなにクスリのんでるんだぜ」というふうに自慢気をおこしていたことがあった。なんだかそういうイキった小学生の恥ずかしさがあるのである。

 

 また、周囲に「この人はストレスに曝されている」という情報を公開してしまうこととどうなるか。とんでもないことになるのである。たとえば仮に、おれの周囲に「ストレスを低減させる」などと謳っている商品をデスクに忍ばせているひとがいたとする。したらばおれは「もしかしてそのストレス、おれのせいなのかも」などと後ろ暗いおもいにおちいってしまう。

 

 すると自然にその人に対する憐憫が高まり、仕事が振れなくなってしまう。その仕事はどうするのかというと自分でなんとかするしかない。となると自分自身に負担がかかりストレスで圧死寸前となる。するとギャバに手を出す。すると他のひとがおれに仕事が振れなくなり……という斟酌のパンデミックが発生するのである。

 

 そんなストレスのドミノ倒しが「ギャバ」というカカオ食品によって引き起こされる。これはヤバイとおもった。GDPの低下により、国家の存亡にかかわるとおもった。いまおれがギャバを購買し、ひょんなきっかけでそれを服用していることが暴かれれば、おれが国家崩壊の爆心地になってしまう。

 

 おれは涙を飲んでとなりに陳列されていたガルボを手にした。チョコレートの親類であるガルボにならすこしはギャバの成分が含有されているであろう。そんな一縷の希望を腹の底に秘め、コンビニをあとにしたのである。

 

 だが執務室にもどると存外な事実が待ち受けていた。なんと朋輩の島田のデスクにはその爆発物である「ギャバ」が軽率にも設置されていたのである。

 

 貴様、なんてことをしてくれたんだッ! みんな伏せろ! と叫びたかったが、かくなる破廉恥な赤いパッケージにだれも気がつかないのか、社員はみな淡々と業務をこなしているのである。

 

 ギャバの危険性に気がついているのはおれだけなのかもしれない。ここはひとつユーチューブにチャンネルを開き、ギャバ爆発よる誘爆の危険性を説かねばならぬ。そう不退転の決意をしたのだが、なんと! 事務方である友部さんが抽斗から取り出し、その口に放り込んだのは、なにを隠そう渦中のギャバだったのである。

 

 もう手遅れだ。すでにギャバの崩壊は始まっていたのだ。おれが気付かぬうちにギャバの魔の手はこんなところまで来ていたのだ。幸いにも、まだ業務の進捗に影響は出ていないようだが、いつ瓦解するとも知れぬ会社の先行きに不安を抱えているおれは、いままさにギャバを大量に摂取し、なんとか精神の安定に努めているのである。

 

 

マムフォード&サンズってもうブルーグラスやんないの?

 新しいアルバム聴いた? 「デルタ」ばかいいね!! はっきり言って前作の「ワイルダーマインド」はおれのなかで無かった。あぁこれは無かったことにしようと脳が判断した。だから記憶にない。

 

 でも「ワイルダーマインド」があってよかった。この「デルタ」というアルバムに繋がったのだから。ツェッペリンで言うとこの「Ⅲ」だよ。いや「Ⅲ」は好きなアルバムだけど。ちょっと賛否がある。きっとボブ・ディランがエレキ化したときも、こんなふうに言われたんだろう。

 

 詩的でエレガント。清亮めきたる楽曲。しゃれてる。マーカスの、吐息を大事にそっとおいてくるようなボーカルが叙情的だし。静謐でありながら瀟洒。どの曲も似通っていて冗長かもしれないけど、霧散したエネルギーには情熱が通底しているとおもう。

 

「42」という曲から始まるのだけれどハーモニーが壮麗。ちいさな教会で祈っているときにこれ流れたらたぶん世界中の戦争とかふつうに終わるのだとおもう。ファーストもそんなふうな一曲目だった気がする。

 

 とにかく「サイノーモア」というファーストアルバムが傑作だった。おそらく「バベル」というセカンドアルバムが人気なのだろうけれども、あちらはちとポップ。おれはファーストのほうが好き。

 

 おれはおそらくこのマムフォード&サンズというバンドに一種の知的な芸術性をもとめてしまっているからなのだとおもう。おれみたいな一知半解の徒がなにを言ってるんだってなものだけれども「サイノーモア」というアルバムには、そういったインテリジェンスの韜晦があったようにおもう。なんかこのひとたち頭良さそう。

 

 いちおう彼らはブルーグラスというジャンルになるのだろう。カントリーとかフォークとか。ちなみにアメリカンミュージックである「カントリー」という名称、これはイギリス移民の「ケルトミュージック」が訛って「カントリーミュージック」となった、という説は嘘だとおもってる。

 

 しかしいまやオルタナという区分であるようだ。有体に言って、彼らのブルーグラス風味のバンジョーが纏綿とする楽曲がけっこう恋しい。アコギがパーカッショナブルで、バスドラが頭打ちで。なんかもっとこうトラッドなやつ。

 

 しかしマムフォード&サンズの方向転換は結果としてよかったのかもしれない。おかげで彼らはただのブルーグラスバンドで終わらなかった。彼らの尤物はその特異な音楽ジャンルではなかったことを示したのだとおもう。

 

 彼らの音楽の芯にあるのは、寂寞の美しさだとおもう。「サイノーモア」を聴いたときにおもったのは、まさに漏れた溜息の、その孤独な美しさだった。森閑とした侘しい部屋で壁に染み入る溜息の音。そういうふうなの。日本庭園見て「侘びいるわぁ」みたいなやつ。

 

 彼らのデビューはその「侘び寂び」をカントリーやブルーグラスという「趣き」とは千里の径庭があるジャンルでやったことに音楽史的意義があるのだとおもう。たしかに烈しい曲もあるけれど。

 

 その「侘び寂び」の風流をバンドの規模とともに敷衍していった。ゆえに「デルタ」には静かな湖畔に濛気する霧のごとき寥々とした空気感がある。霧のねばりつく湿度が鼻腔のおくに闖入してくるようだもの。ほんと一句詠めそう。

 

 ぶっちゃければデルタにはキラーチューンのような曲は無い。「The Cave」や「I Wii Wait」みたいなのは無い。けれども彼らの骨子である「寂しさの美」みたいなものは通奏低音のように響いている。彼らはそういうバンドになっていくのだろう。とてもいいアルバムだとおもいました。

 

Delta

Delta